「親は子を養育する慈悲心があるから養育するので、義務で育てているのでは無い。どこまでも親の慈悲心という広大無辺なものを考えて、それをご恩として報恩せねばならない。」
- 耕三寺耕三 -
当寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で、山号を潮聲山、寺号を耕三寺といいます。
大阪で大口径特殊鋼管の製造会社を営んでいた技術者で実業家の、耕三寺耕三が母親の死後、母への報恩感謝の意を込めて、自ら僧籍に入り菩提寺として昭和10年より生涯を掛けて建立したお寺です。
ともに世の中のすべてのお母様にありがとうと心から手を合わせる「母の寺」として親しまれています。
桜、つつじ、紫陽花、百日紅、紅葉…四季をとおして様々な花木にあふれる境内はまさに、耕三和上の俳句「世の母はみな観世音花の春」を現出したごとく晴れやかな母の浄土と言えます。
伽藍配置は、上・中・下3段からなる境内内を南北に貫く軸線を中心として、厳密な左右対称をとっており、全国にも例のない「耕三寺式伽藍配置」として高い評価を得ています。また、堂塔の内の15棟は「国登録有形文化財」の指定を受けています。
我が国を代表する古建築を手本としながらも、建物をしての実用性、機能性を重要視し大胆かつ独創的な改造、改良を加えた耕三和上の、類希な感性とその手腕が今に実証されたものと言えるでしょう。
「寺をほめて下さるのも悪い気持ちはしないが、お母さんを仏様のようにほめ讃えてもらいたいのが、拝観者に対する、永い年月における私の念願である。」耕三寺耕三
耕三寺を創建した耕三寺耕三は、明治の日本における酸素溶接技術のパイオニアでした。
1907年代に溶接技術を教えるためフランスのエア・リキッド社が大阪に日本オキシジェーヌ・アセチレーヌ会社をつくりました。日本における産業用ガス事業の幕開けでした。
当時16歳の耕三は、手伝いから見習いと努力を重ね正社員となりロワイエ総支配人、セギー技師のもと技術を取得しその後独立。日本初の大口径の鋼管溶接方法を発明しました。1926年には、東洋径大鋼管製造所を設立し社長兼技師長に就任、多数の特許を取り下水道管から船舶用鋼管まで幅広く製造し大成功を収めました そして1934年 母親が亡くなると僧籍に入り母の菩提寺として耕三寺を建立することとなったのです。
耕三寺建立は、フランスの溶接技術が元になったと言えるでしょう。
明治 | ||
明治24年12月2日 | 父金本家六代目金本孫助、母ヤツの長男として神戸市にて誕生。福松と命名。 | |
明治26年12月 | 2歳 | 父金本孫助、福岡県鞍手郡直方町にて起業。 |
明治31年4月1日 | 6歳 | 南生口尋常小学校に入学。 |
明治32年4月1日 | 7歳 | 福岡県直方の父のもとに移住。 福岡県鞍手郡直方尋常小学校に転校。 |
明治35年4月1日 | 10歳 | 福岡県鞍手郡直方高等小学校に入学。 |
明治37年2月23日 | 12歳 | 福岡県鞍手郡直方町に於いて父孫助死去する。 |
明治39年3月23日 | 14歳 | 直方高等小学校高等科卒業と同時に異母兄の製鑵(かん)工場金本鉄工所に就職。 |
明治41年 | 16歳 | 大阪桜島オキシゼーヌ・アセチレーヌ会社に酸素溶接見習工として就職。 フランス エア・リキード社 技師、ロワイエ及びセギー氏に師事。 |
明治43年 | 18歳 | オキシゼーヌ・アセチレーヌ会社退職、金本鉄工所へ再入職。 |
大正 | ||
大正2年 | 21歳 | 直方有楽町に金本かん着工場を開く。 |
大正3年1月 | 22歳 | 友成通子と結婚する。 |
大正4年 | 23歳 | 直方市西町に15坪の工場を新築し第二金本着工所と命名して設立独立する。 |
大正8年 | 27歳 | 直方市大正町に住居を新築し母を迎えて同居する。 |
大正10年 | 29歳 | 径大鋼管の製造方法を発明し、直方市大正町にて日本スチール管株式会社を創立し技師長兼社長に就任。 |
大正12年 | 31歳 | 大阪へ出て日本特殊鋼管合資会社を設立する。 |
昭和 | ||
昭和元年 | 34歳 | 大阪市西淀川に於いて東洋径大鋼管製造所を設立し社長兼技師長に就任。 |
昭和2年 | 35歳 | 瀬戸田町に母の別荘潮聲閣を建て始める。 |
昭和4年3月30日 | 37歳 | 径大鋼管溶接法矯正装置および仕上装置に関する発明により大阪府知事より賞状を受ける。 |
昭和4年8月 | 瀬戸田の塩田八番浜を買収し支配人として重松一郎を雇用する。 | |
昭和4年 | 溶接鋼管仕上装置の発明により特許および実用新案登録を受ける。 | |
昭和6年 | 39歳 | 文学座四世竹元南部座太夫に師事し浄瑠璃を研究。 |
昭和7年 | 40歳 | 大阪淀川乗馬倶楽部を創設し大学生等を指導する。 |
昭和9年6月25日 | 42歳 | 母金本ヤツ死去 行年69歳 |
昭和9年 | 塩田九番浜を買収し合同製塩のもとを示す。 | |
昭和10年5月19日 | 43歳 | 浄土真宗本願寺派にて得度し「耕三」の法名を拝受する。 |
昭和10年10月 | 耕三寺造営を発願する。 | |
昭和10年12月5日 | 44歳 | 金本福松を金本耕三と改名届提出。 |
昭和12年2月1日 | 45歳 | 五百羅漢500体彫刻着工。(昭和23年春完成) |
昭和13年9月13日 | 46歳 | 山梨県山梨郡菱山村得祐寺衆徒に転換し同日住職就任。 |
昭和13年10月 | 仏宝蔵(画聖堂)竣工。 | |
昭和14年3月25日 | 47歳 | 得祐寺(とくゆうじ)を瀬戸田町に移転することを許可せられる。 |
昭和14年4月 | 西側廻廊(羅漢堂)立柱式。 | |
昭和14年5月16日 | 東側廻廊(羅漢堂)立柱式。 | |
昭和14年5月 | 中門立柱式。 | |
昭和14年6月6日 | 11,200坪 耕三寺敷地の整地工事始める。 | |
昭和15年4月16日 | 御本堂 立柱式。(完成昭和24年4月) | |
昭和15年5月5日 | 鼓楼の丹塗りが完了。 | |
昭和15年5月31日 | 山門(冥加(みょうが)の門)竣工。 | |
昭和15年6月6日 | 僧宝蔵 立柱式。 法宝蔵 立柱式。 |
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昭和15年10月19日 | 至心殿 立柱式。 | |
昭和15年11月 | 耕三寺前潮虹園(ちょうこうえん)の中型インコ600羽100種及び丹頂鶴20羽飼育するも物資統制の為中止し大空に放つ。 | |
昭和15年11月30日 | 本願寺派より大日本佛教慈善会財団評議員に推薦せられる。 | |
昭和15年12月11日 | 信楽殿 立柱式。 | |
昭和15年 | 48歳 | 耕三、径大鋼管社長を辞任し、弟万次郎を社長に推薦する。 |
昭和15年 | 瀬戸田町立瀬戸田高等女学校の移管を受け、瀬戸田学園(学校法人)を設立し、私立瀬戸田学園高等女学校と改称し理事長となり新校舎建築に着手する。 | |
昭和16年3月1日 | 御本堂翼廊1階組立工事完了。 | |
昭和16年9月 | 多宝塔 着工。 | |
昭和16年9月16日 | 耕三寺所領の塩田6浜13町歩、支配人重松一郎は塩の増産に当る。 | |
昭和16年11月15日 | 八角堂 立柱式。 | |
昭和17年3月 | 50歳 | 御本堂天上揮毫(きごう)の為横山大観と再会する。 |
昭和17年6月26日 | 得祐寺を耕三寺と改称する本山の許可を得る。 | |
昭和17年8月17日 | 鋼管防蝕用アスファルト布播付装置を発明し、特許局長官より特許証を受ける。 | |
昭和17年 | 瀬戸田病院(後の県立瀬戸田病院)の新設を決定する。(種村氏初代院長となる) | |
昭和18年 | 51歳 | 銀龍閣着工。 |
昭和20年 | 53歳 | 古儀茶道藪内(やぶのうち)流茶道中国総司所を拝命する。 |
昭和22年4月 | 55歳 | 文部省6・3・3制により私立瀬戸田学園瀬戸田高等学校は男女共学となる。併せて中学校を併設する。 |
昭和23年4月 | 56歳 | 私立瀬戸田学園高等学校は県に移管され、現在の県立瀬戸田高等学校となる。 |
昭和23年4月 | 西本願寺ご門主大谷光照猊下ご巡視、ご宿泊所となる。 | |
昭和23年11月 | 藪内流茶席 庵(いつあん)竣工。 | |
昭和23年12月5日 | 57歳 | 西本願寺連枝大谷照乗師を導師として耕三寺入佛式を執行する。 |
昭和24年4月 | 57歳 | 本堂内陣柱等一切の彩色修了。 |
昭和24年8月28日 | 古儀茶道藪内流2代猗々斎竹風お家元を招き第1回茶筅供養法要を催す。 | |
昭和25年10月10日 | 58歳 | 毎日新聞社主催「日本百景建造物」の部に第1位当選。 |
昭和27年4月 | 60歳 | 礼拝堂基礎工事始まる。 五重塔鋼鉄心柱建つ。 |
昭和27年7月1日 | 耕三寺付属耕三寺博物館 国の登録博物館に指定される。 耕三の長男弘三、初代館長となる。 |
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昭和28年3月12日 | 61歳 | 耕三寺弘三大谷光明師ご媒酌のもと大谷昭乗連枝長女を娶る。 |
昭和28年3月14日 | 耕三寺博物館、開館する。 | |
昭和28年9月 | 孝養門の建立を立願する。 | |
昭和28年10月10日 | 瀬戸田町より表彰条例第3条特別功労名誉町民として表彰される | |
昭和29年1月 | 62歳 | 孝養門の地鎮祭と工事の始業式を執行。 京都の麻田耕民氏孝養門の彫刻に取り掛かる。 |
昭和30年5月 | 63歳 | 第1回母の日敬讃法要を催す。 |
昭和30年 | 孝養門 基礎工事完了。 | |
昭和30年12月10日 | 64歳 | 孝養門 立柱式 執行。 |
昭和30年12月 | 五重塔 竣工。 | |
昭和31年4月10日 | 64歳 | 孝養門の柱建てを行う。 |
昭和31年4月15日 | 金本姓を耕三寺と改姓 耕三寺耕三となり、耕三寺家を興す。 | |
昭和36年4月16日 | 69歳 | 本堂回廊焼失。 |
昭和39年3月15日 | 72歳 | 千佛洞地獄峡完了 法要執行。 |
昭和39年4月 | 孝養門 竣工。 | |
昭和40年1月 | 73歳 | 月光門前敷地1,300坪を浄土苑と称し170坪の宝物館、及び36坪のピラミッド型温室3基の建設工事始める。 |
昭和40年10月 | 救世観世音菩薩建立完了。(高さ50尺) | |
昭和40年11月 | 供養塔 竣工。 | |
昭和45年10月25日 | 78歳 | 耕三寺孝庵にて78歳の生涯を閉じる。 |