堂塔のご案内

国登録有形文化財指定のご案内(平成15年指定)

築後半世紀を経た、文化財としてはまだ若い建造物にも広く光りをあて保存・活用していくことを目的に、平成8年より施行されている評価制度(文化庁)です。
規模や格式、種類を問わないことが特徴で早くから文化的景観として親しまれているもの、その場所でしか見られない珍しい意匠また、現在においては再現が容易でない高度な、あるいは固有の技術が用いられていることなどが主な指定の基準となっています。
当山においては以下の堂塔が指定を受けており、このことは耕三寺初代住職耕三の、独創性と実用性を重んじ30有余年の歳月をかけて成しえた「耕三寺様式」が改めて評価、認識されたものと言えます。

指定内容

1)国土の歴史的景観に寄与しているもの―山門(冥加の門)
2)造形の規範となっているもの―潮聲閣
3)再現することが容易でないもの―中門 羅漢堂(東西) 鐘楼 鼓楼 仏宝蔵 法宝蔵 僧宝蔵  至心殿 信楽殿 本堂(中堂・東西翼廊・尾廊) 多宝塔 八角円堂 銀龍閣

上段

孝養門

言うまでもなく原作は日光東照宮陽明門である。当寺の建築においては唯一その実測図が用いられており、各部の比例も一致している。昭和28年当時この大事業を立願した耕三師は幾多の苦心の末、文部省に1組だけあった図面を同省に申し入れ入手、以来10年の歳月をかけ完成に導いている。相違は各部の装飾の彫刻と彩色に多く、下層柱の金銀泥彩色を施した聖衆来迎の浮彫、組物表面に施した宝相華と繧繝(うんげん)彩色など原作よりはるかに華麗で、こうした点では日本一豪華な建築物と呼べるのではないだろうか。

至心殿・信楽殿国登録有形文化財

両殿は本堂の前庭に向って相対し、本堂より見て左が至心殿、右が信楽殿である。京都・法界寺の阿弥陀堂を原型とするが、至心殿は宝物館(現在は法要具倉庫としている)信楽殿は大講堂として建立している。いずれも仏法蔵などとならび当寺の堂塔では装飾建築が施されていない簡素な意匠となっており、また若干の平面上での相違はあるものの、規模・形式・建築年代をはじめ大方の点で同じであり、そのように建立しているのは無論、伽藍を左右対称にするためである。両殿とも平安後期(藤原時代)の寺院建築の優雅な特徴をそなえている。

本堂国登録有形文化財

京都宇治平等院鳳凰堂を原型とし建立。中央に中堂、その左右対称形に翼廊を配し中堂の背後に尾廊が建つ。これもまた彩色装飾においては極彩色を施し外部の組物などの表面は宝相華唐草文と繧繝彩色を主体としており原作よりは一段と華やかである。入母屋の屋根、切妻、寄棟、腰屋根をはじめ肘木垂木の大面取など、仏教建築の最高峰と言われる藤原時代の様式を忠実に取り入れていることが最大の特徴と言える。この前面には約八間角、総白大理石造りの大礼壇があり、腰鏡には瑞華霊禽の浮彫を施している。

多宝塔国登録有形文化財

滋賀県大津(近江)の国宝石山寺の多宝塔を原型としている。比較的これに(多宝塔の定型通りに)沿って造られているが原作の下層の中備は単純な間斗束(けんとづか)だけであるのに対し、こちらではそこが蟇股に変えられており、最大の相違点と言える。
本堂を挟みこれと相対する八角円堂とともに、伽藍中心軸線に対し建物の正面を45度振っていることは、日本の社寺では唯一の配置であり、その斬新さは、境内の景観によりいっそうの凛とした空気感を与えてくれている。塔内には同本尊の大日如来坐像を安置(木造漆箔・室町)する。

千佛洞地獄峡

昭和30年に起工、39年に完成している。入口は本堂西側至心殿横、出口は救世観音大尊像そばに設けており、地下約15mに全長350mにもなる隧道(洞窟)を掘り、富士山の熔岩と浅間山の焼石を鉄筋コンクリートで固めて岩組。中間の3ヶ所には高さ約10m広さ数10平方メートルの洞室がある。石造の仏諸尊千体を奉安、滝が流れている他、隧道には地獄極楽画図の額数十面が源信僧都の往生要集を視覚的に理解できるよう奉懸している。

救世観音大尊像

本堂東翼廊の左、八角円堂の後方に造顕されている、奈良・法隆寺夢殿の御本尊、秘仏救世観音が手本。像高だけで10m(33尺3寸)あり、宝冠、台座などを加えた総高は15mにもなる大露仏である。
鉄筋コンクリートで固めた基礎の上に鉄心を組み、コンクリートと漆喰を併用し肉付けした上に塗装しているものだが、こうした工程による仏像の造立、同様の技術は例がなく当時、耕三師自ら陣頭に立ち、労苦を惜しむことなくかつて培った鉄の加工技術を遺憾無く発揮され完成に導いている。

茶祖堂

当寺伽藍の東南隅の小立上に離れて建つ小堂であり、当寺の諸堂宇中では最も新しい建物で昭和41年の竣工となっている。建築様式は江戸末期19世紀前期の特色を示すが、複雑な屋根形式(向拝や突出部を含めると十字形平面)を持ちつつ、細部に使用の意匠はすべて本格的な伝統社寺建築であり、独創的な建物となっている。代々古儀茶道藪内流を修する当家においては、毎年11月3日の文化の日に茶筅に感謝の意を込める供茶式と野点の行事を行っている。

八角円堂(聖徳堂)国登録有形文化財

本堂から見て右方の小立上多宝塔と同様、伽藍中心軸線に対し正面を45度振って建つ。聖徳太子の御座所であったとされる奈良法隆寺の夢殿を原型としているが、規模は二分の一に縮小している。
これに伴い各辺中央の間柱、また内部八本の身舎(もや)柱も省略、廃した造りとしている。結果、実用性に富んだ広々とした室間を現出させており小ささを感じさせないものとなっている。堂内には聖徳太子十四歳御孝養の画像を安置する。

銀龍閣国登録有形文化財

信楽殿の後方、巨石と樹林にかこまれた林泉のなかに優麗とたたずむ書院造の建物である。泉水は「琵琶の池」と言う。八畳大の板敷の一室を本体とし、三方は腰障子の四枚建てとして開放的に造り、その外側には高欄付きの廻縁を巡らせている。また室内の板敷は朱漆塗で、中央上部には大きな円形の鏡天井を張り龍図を描いている。屋根は宝形造り、銅板葺としており、玄関と勝手を付け、茶室として利用できるようにしてある。内外部とも銀色の塗装を多く用いており、これは白色とともに戦後の当寺の建築色の基調となっている。

中段

五重塔(大慈母塔)

境内中段の中央に建ち本堂・孝養の門と建物の軸線を直線に揃え、本堂と塔が前後に並び建つ四天王寺式の伽藍配置を見せる、中段における中心的建築である。
奈良・室生寺五重塔(国宝)を原作とし比較的忠実ではあるが、基壇の高欄、初重の柱の仏像の浮彫、同組物などへ宝相華の彩色を施しているなど外観上は当寺の特色をだしたものとなっている。
また内部の心柱には耕三師の発案で鋼管を使用しており、昭和時代のその技術を反映している。

法宝蔵・僧宝蔵国登録有形文化財

両宝蔵は五重塔に向って相対する建物で同寸同大、塔の右側が法宝蔵、左側が僧宝蔵である。飛鳥時代創建で江戸期に再建された大阪・四天王寺の金堂を原型としているが、いずれの宝蔵も宝物館として建立、応用するためにとくに内部の平面や構造は、おおよそ別のもの(実用的建物)に変化させていることが特徴となっている。しかし建築細部は、入母屋造の妻面に見える虹梁や身舎の組物の形状など江戸後期(19世紀)の社寺建築の特徴を正確にとらえているものである。

法宝蔵は博物館3号館、僧宝蔵は博物館4号館として公開している。

下段

山門国登録有形文化財

当寺伽藍配置の中心軸線上の最前に建つ門であり、総門に相当する。京都御所・紫宸殿の御門(白木造り)と同じ様式ではあるが、これはその大方を鋼鉄で造っておりそのうえに朱を塗りこんでいる。扉表面の龍と波と狛犬の浮彫は、京都画壇の帝展特選作家故、川上拙以画伯の構想による下図をもとに彫刻また、貫や扉の桟などは木造建築と錯覚するほど精巧にできており、当時の優れた鉄の加工技術を知るうえにおいても貴重かつ独創的な建築である。

中門国登録有形文化財

当寺の表門に相当し、奈良法隆寺の西院伽藍(楼門)を原型としている。丸柱の上下部を細くし中央にふくらみを持たせ安定感を与えていること、外観の美のみを追求し階段をなくした2階、また上層の勾欄にある万字崩の組子、平桁の蟇股のような割束など飛鳥時代の建築様式であるエンタシスの特徴を完全に再現している。装飾については自由奔放で、柱の浮彫などは戦後の当寺の堂塔装飾の基準作となっている。

羅漢堂国登録有形文化財

当寺中門を中心として、その左右に続く回廊である。法隆寺西院伽藍の回廊を原型としたと考えられるが、回廊を結界という本来の目的だけにとどめず、これは五百羅漢を安置する仏堂としての機能を持たせている点が最大の特徴となっており、耕三師の建物を実用的にとらえる発想がよく表れている。羅漢像は五百体を安置し、制作には奈良の仏師と共に耕三師自らも慈母の菩提、生命あるものすべての往生極楽を願い三礼の刀をふるっている。

礼拝堂

上中下三段からなる当寺の中心伽藍において下段から中段に登る石階段の下に位置する、当寺独自の仏堂である。京都の国宝清水寺西を原型とし、桃山時代の建築様式にのっとって建立したものであるが、彩色や装飾のいっさいは耕三師の考案によるものであり、また堂塔建築のなかでは後期(戦後)に属すため当寺の建築的特色が確立したものとも言え、原作の門を礼拝堂に応用するという自由な発想は注目に値される。なお御内陣には観世音菩薩の尊像を安置する。

鼓楼・鐘楼国登録有形文化財

伽藍の中心軸より左右対称の位置に建ち、礼拝堂をはさむ形で配している。いずれも同寸・同大、奈良 新薬師寺の鐘楼図面をもとに建立している。当寺の堂塔建築のなかでは早期(戦前)のもので、同時期のそれらが原作とは異なるものが多いなかこの二楼は、おおむね忠実であり袴腰付き、入母屋造、本瓦葺である。しかし原作より、袴腰に少し反りを加え、中備を増やし彩色を華やかにしている点などは、やはり耕三師独自の価値感による意図的な変更を見ることができ単なる模作でないことがわかる。

仏宝蔵国登録有形文化財

当寺の堂塔のなかで最初に建立(昭和13年建立)されたもので、正面には潮聲閣の庭園が広がり、そこからの背景にもなっている。
奈良の国宝新薬師寺本堂を原型としたとされるが、実際は、横長平面の入母屋造、組物の大斗肘木などごく一部の印象的な要素のみを取り入れているにすぎず、大方は実用性を重んじた耕三師の自由な設計となっており、後の当寺の建築方針に共通する特色をよくあらわしている。しかし最初であるためか華麗な装飾はなく、簡素な意匠となっていることも特色のひとつとなっている。

潮聲閣国登録有形文化財

潮聲閣は耕三寺建立発願の原点ともいうべき建造物で、書院造を主とした日本住宅と西洋風住宅である洋館とを複合させた大邸宅となっており、これは耕三和上がまだ大阪で大口径特殊鋼管の会社を営み成功を収めていた当時、ここ故郷瀬戸田に住んでいたご母堂の老後を慰めるため、自身の事業を陰日向なく見守り続けてくれた報恩のために建築したものです。

日本住宅部分は東西棟の入母屋造を本体とし、随所に耕三独自の発想による書院造の新機軸とも言える格長高い意匠をみることができまた、来客を迎える大広間よりも老人室をはるかに豪華に造っていることや、仏間が通例よりはるかに大きく独立しているかのように住宅の本体部より突出させて設けていることは、耕三の母堂への強い思いが顕著に表れたものとして特筆されるところでしょう。

洋館部分はほぼ正方形平面の二階建てで、車寄せや内装の茶色の腰板と白漆喰仕上げ、華麗なステンドグラスなど大正から昭和戦前の洋館建築の典型例であることがうかがえます。こうした建物は、明治から昭和初期にかけて流行した形態ではありますが、広島県内においては数例が現存するのみで、規模、豪華さ精緻さにおいては潮聲閣が卓越しており、完全な創作建築として評価を得ています。周囲をかこむ日本庭園と相俟ってかもし出される四季折々の様々な情景、空気感にふれてもらえることもここを楽しんでもらえるひとつかと思います。

金剛館

昭和27年3月、耕三寺が国より博物館法による登録博物館に指定されるにいたり、境内の3館に美術品を、展示していました。しかし、重要文化財のより良い保存と展示の向上を図るため昭和43年8月、鉄筋コンクリート造り建坪556.8平方メートルの「新宝物館」を新築開館致しました。その後、平成8年地震対策等の改修をし、開山住職の院号「金剛院」より「金剛館」と改名致しました。
耕三寺所蔵の、重要文化財、重要美術品などの一部常設展示や企画展示などの展示館として公開しております。

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